山川石は,山川福元付近で産出される淡黄色をした岩石である。

山川石の露頭

俣(また)川(ご)洲(し)付近にあった火口から噴出した火砕流堆積物だ。

加工がしやすく,しかも風化に強いことから石垣や墓石として用いられ,遠くは奄美大島にまで運ばれた。

山川石がいつごろから使われたのかは定かでないが,現在のところ,鹿屋市高須町波之上神社境内にある1328年(嘉暦3)の年号が刻まれた板碑が歴史資料としては最も古い。

山川石に含まれる岩片や軽石は,俣川洲付近で最も大きく,福元付近では小さな軽石が点在する程度となる。また,竹山の上部では成層した縞(しま)模様が見られ,かつてその中から貝化石が採集されたらしい。

こうしたことから,山川石の噴出源は俣川洲付と見られ,一部は水中で堆積したと考えられている。

鹿児島大学総合研究博物館の大木公彦館長によれば,山川石は多孔質な火山砕(さい)屑(せつ)物のため熱を通しにくく,断熱効果に優れた石材であるという。乾燥した岩片を舌先にあてると吸い付いてきて多孔質であることが体感できる(大木館長教示)。

山川地頭仮屋の石塀(江戸時代)

山川地頭仮屋石塀

弘化4年(1847),福元の蛭子・仮屋・充石,成川の八窪に砲台が築かれた。

当時の地頭,海老原清(きよ)煕(ひろ)は砲台設置に加え,いざという場合の出張・駐屯に備え,山川地頭仮屋の拡張を行った。

山川石で築かれた地頭仮屋跡の石塀は,今でも山川庁舎の東側と西側に残っている。

島津斉彬夫妻の墓(山川石)

島津斉彬夫妻の墓

島津本家の墓は山川石製の宝篋印塔(ほうきょういんとう)が多くを占める。

特に近世では,山川石は,歴代当主夫妻に限定されて使われた。斉彬夫妻の墓も山川石製である。

宝篋印塔自体は,都城島津家,垂水島津家,重富島津家でも近世段階まで使われるが,石材に山川石はない。山川石は島津本家にとって特別な石材であったことがうかがわれる。

ちなみに今和泉島津家でも初代忠郷,2代忠温とその正室の墓は,山川石製の宝篋印塔である。

石敢当(山川石製)

石敢当

『薩州鹿児島城下町々の行(ゆき)当(あたり),或は辻,街などには,必ず其高さ三四尺斗(ばかり)りなる石碑あり,石敢当という文字を彫付(ほりつけ)けたり。「いかなるゆえぞ」と所の人の問うに,「昔より致し来たれる事にて,いかなる故ということを知らず」という。』

伊勢に生まれた江戸時代後期の医者橘南谿(たちばななんけい)が,その著書「西遊記(せいゆうき)」に記した石敢当のくだりである。

石敢當は,古代中国にそのルーツを持つ魔よけの石。町なかを徘徊する魔物は直進する性質があり,T字路などの突き当たりにぶつかると向かいの家に入ってきてしまうと恐れられていた。そこで,魔物の侵入を防ぐために道の突き当たりに石敢當が設けられた。魔物は石敢當に当たると砕け散るという。

石敢當は,山川港のある福元地区に多く分布している。

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2件のコメント on 山川石

  1. 平井泰輔 より:

    現在も、山川石の生産は行われているのですか?
    もし、生産は行われているのでサイズと価格を知りたいのですがよろしくお願いします。

  2. mama より:

    平井 泰輔さま

    コメントありがとうございます。
    返信が大変遅くなり、申し訳ございません。

    ご質問の山川石生産は、資源が少なくなくなったこと、採石が採算割れになったこと、採掘現場が危険になったこと等から採掘規制がかかったと考えられます。
    新素材等の開発もあり、昭和30年代の中ごろには採掘中止になっていたと思われます。

    また、指宿市山川福元地区の2・3ヶ所で採っていたようですが、山川がんばろう館の裏山が発掘場所の一つでした。
    山川がんばろう館談では、がんばろう館が指宿市山川福元区から権利を買ったか借りたし、裏山から石を出し、石工職人を館の指導員として雇い、飾り物等を造っていました。これが最後の採掘です。15年前か20年前までなのか、正確な記憶は無いようです。石工職人が退職して以降、採掘はされていません。

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